新学期が始まり2週間。
新しいレッスン形態や時間設定にまだ慣れず、妙に疲れる。
ヨーガで体を整えつつ、「全然疲れが抜けない。」と言うと、「それがいわゆる五月病じゃない?」とのこと。
なるほどー。
そういえば、正ちゃんが持って帰って来た、中1の学年だよりに、
「疲れが出てくる時期なので、いわゆる五月病になるのを防がないといけない。「だるい」「頭が痛い」「学校に行きたくない」などの訴えに対し、適切な指導をしないと、『非行』『不登校』になってしまう。」
「そのため、部活動にしっかり参加し、友人関係を重視する。」
と書いてあったな。
みじんも共感できないが。
さらに、5月の月訓「仲間のよいところをみつけよう!」。
良い生徒の言葉として、「今日も帰るのが7時だった。疲れているのに宿題も多く、イヤになる。「でも」、ここでしっかりやらないと!!」とのこと。
シメの言葉として、「これから部活動の練習は、もっと質・量ともに高まると思います。時間を有効に活用できる工夫も必要になってきます。(睡眠時間は今までよりは短く・・・)」とのこと。
みじんも共感できないが。
子どもたちの人生というのは、中学3年間に始まり、そこで終わるわけではない。
大前提として、それまでに生きてきた、子どもそれぞれの特徴というのがある。
私が大切に育んで来た子どもたちひとりひとりの個性をすべて一定のラインで切りそろえられ、同じ条件で「いちについて」、決められたいくつかのコースで競争させられる感じがする。
日本の中学の部活動って、異常じゃないですかね?
すべての子どもを対象に、同じように同じだけの量を要求し、そこについて行けるかどうかで人間の価値が決められるような方法が、教育としてまかり通ってるのが本当に腹立たしい。
ある一面において良い効果があるというのは、教育者として責任を持てる大人の監督下において、「適切に」行なわれた場合のみ、だ。
この先、社会において必要なのは、「効率良く」「幅広い視野を持って」「自己判断できる」力じゃないかな。
朝から晩までクタクタになるまで土曜も日曜もなく働くことを「がんばってる」と称するのは、部活動が規準になっていると思う。
言われたことを言われた通りにしかできない社員は要らない、とされて久しいんじゃないのか。
少なくとも、私が今まで3才や4才からずっと成長を見守って来た子たちが、今までとまったく違う方向へグイッと生き方を変えられているのは、これはこれで人の人生を育む教育として成り立っていると言えるのだろうか?
聞く耳を持ってくれるお母さんにしか届かないかもしれないが、私は、中学に入った子の保護者に、
「最初は大波が立ったように、親も子も、ざぶんざぶんと振り回され、慌てて浮き輪を用意したりバシャバシャと手足を動かしたり、それまで持っていた荷物を捨てたりしようとする。
でも、結局、子どもの本質というのは変わらないから、次第に波は静かになり、それぞれのやり方で必ず浮き上がれるようになる。
だから、今はじっと、静かにコトを見守って、じっと待ってて。」
と言う。
子どもたちには、
「今が一番しんどい。
すべてのことを全部一生懸命、全力でやるのではなく、ほどほどのところで様子を見て、自分なりのやり方を早く見つけた方がいい。
少なくとも、先生の見る限り、あなたは真面目だけれど、あらゆることを器用に全部こなせるタイプではないから、どこを大事にするのか、何を優先するのか、それは、「今、中学生活をつつがなく送るため」ではなく、「大人になったときどう生きるか」という視点で落ち着いて自分を守ることが大事だよ。」
と言う。
どうも、視点が「子どもそれぞれの将来の生き方」ではなく、「顧問の先生もしくは学校の功績」であったり、「引退するまでみっちりだけ」であったりするのが、とても無責任な感じがしてしまう。
スポーツの勝負のなんたるかを、文武両道に教育しているところ、まさに音楽の喜びを味わわせるところ・・・、私が見て「素晴らしいなぁ。」と思った学校って、どこも部活動の日数が制限されてるんだよね。
どちらが子どもの「生きる力」になるのか、目先の功績だけじゃなく、広い視野で見直すべきじゃないかと思う。
単にやり方だけの問題じゃない。
私が赤ちゃんの頃から見て来た子ども一人一人、お母さん一人一人が、そのまま認められて、さらに成長させられると感じるなら、そんなこと思わないと思う。
そして、クラーク高校を知らなかったら、そこまで疑問に思わなかったかもしれない。
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